石垣島の歴史 長田大主

Fuyuです。オヤケアカハチから、石垣島の歴史に興味が広がり、石垣中を訪ねて歩きました。長田大主(ナアタウフシュ)は1500年のオヤケアカハチの乱で、琉球王府軍につき、オヤケアカハチを討伐した人物の一人です。八重山の群雄割拠時代の英雄の一人なのです。

オヤケアカハチとは同じ波照間島で生まれた幼馴染です。生まれは1456年。京都では室町幕府、足利義政の時代です。8歳にして石垣島に移住して、石垣島南部で勢力を築きます。といっても、全島で住民は数百人といった時代です。1500年のオヤケアカハチの乱では、琉球王府軍の側で参戦しました。没年は1517年です。

オヤケアカハチとの不仲

長田大主の下の妹、古乙姥(クイツバ)はオヤケアカハチの妻になっておりました。オヤケアカハチは当時、島の南東(大浜)を支配していましたが、(石垣島の大酋長であったという説もあります。)長田大主は、妹 古乙姥をそのオヤケアカハチの妻に差し出し、義兄弟の契りを交わしておりました。しかしその実、彼女にオヤケアカハチを暗殺させるための謀略だったのです。ところが、彼女は夫を愛するようになり、兄の企みを夫に漏らしてしまいます。これが、長田大主の二人の弟がともに討たれることにつながります。

オヤケアカハチの乱 戦闘前

この時代、琉球王府が先島諸島全体を勢力圏下に置くことを狙い、勢力を広げているところでした。そんな中で、長田大主は石垣島南部の四ヶ字(石垣・登野城・大川・新川)を勢力圏下に置いており、宮古島の仲宗根豊見親の子ともいわれる関係もあって、当然のごとく琉球王府の勢力伸長に手を貸していたものと思われます。

もと、石垣島全土に勢力を張っていたオヤケアカハチは、石垣島土着の宗教を禁止されるなど、琉球王府の圧政に反抗し、他の八重山の島々とともに独立することを目指したものと思われています。

琉球王府がオヤケアカハチ征伐軍を差し向けらたことがわかり、オヤケアカハチはともに戦う同志を求めます。島南部の長田大主、北部の仲間満慶山(ナカマミツケーマ)、波照間の明宇底獅子嘉殿(ミウスクシシカドン)を説得するが、どれも果たせませんでした。結局、オヤケアカハチは長田大主の2人の弟と仲間満慶山を殺害し、獅子嘉殿も刺殺して海中に投げ入れました。このときに、長田大主は西表島に逃れて隠れました。石垣島でのこれらの事件は琉球王府に通報され、さらに宮古島攻撃の意図を宮古島の仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミャ)に通報されたため、琉球王府に軍を差し向ける口実を与えてしまいます。

オヤケアカハチの乱 戦闘

1500年2月2日琉球王府の船団が那覇を出発しました。先導は宮古島の仲宗根豊見親です。13日に石垣島に到着し、長田大主も西表島から小舟で駆け付け、道案内をつとめました。

最初、双方の女性呪術師による呪術合戦により火ぶたが切られ、琉球軍による登野城、新川の攻撃により戦いが始められたが、オヤケアカハチは二方面作戦に対応することができず、長田大主に打ち取られます。

オヤケアカハチの乱 戦後

長田大主の上の妹、真乙姥は琉球王府の軍が海路を無事に那覇に帰着するよう日夜断食して祈願し続けました。その結果、一兵もかけることなく那覇に帰着したということです。願いが叶ったため、その場所に美崎御嶽が創建されました。美崎御嶽は八重山の公儀御嶽(クギィオン)として、八重山で最高の神格をもつ御嶽として尊敬を集めまています。

地図

戦後、長田大主は初代の石垣八重山頭職に抜擢されました。姉の真乙姥は最高位の神人、八重山の大阿母職に任命されましたが、辞退したため、石垣島の永良比金(イラビンガミ)の神職となりました。また、真乙姥の墓所は真乙姥御嶽です。

地図

真乙姥御嶽では、毎年 四ヶ字(石垣・登野城・大川・新川)の豊年祭が行われています。

アカハチの妻で真乙姥の妹、古乙姥は戦後殺害され、真乙姥御嶽の片隅に葬られました。古乙姥の墓はツダミ(カタツムリの意)の墓と呼ばれ、人々に踏みつけられていたといいます。しかし1970年、オヤケアカハチの像のある大浜の崎原公園に移されました。

地図

長田大翁主霊(ナータウフシュリョウ)

長田大主はこの地で身を隠し、神となったと言い伝えられています。

長田大主の霊をたたえる石碑が建てられています。

地図

長田御嶽

両側をビルに挟まれた、ビルの谷間にあります。長田大主一門を祀る御嶽です。

地図

墓はバンナ岳麓にあります。

石垣島・竹富町レコメンドカテゴリの最新記事