石垣島の歴史 仲間満慶山

Fuyuです。地元の英雄について調べました。オヤケアカハチの時代の後も、石垣島の歴史を作っていった様子に、なにか誇らしいものを感じました。仲間満慶山英極(ナカマミツケイマエイキョク)。嘉平首里大屋子(カビラシナゴーヤー)英極といい、満慶山は童名、首里大屋子は役職名です。母は嘉平(カビラ)村のツカサ、仲間かもい。1467年石垣島に生まれ、島北西部の川平を治めました。lFuyuです。地元の英雄について調べました。オヤケアカハチの時代の後も、石垣島の歴史を作っていった様子に、なにか誇らしいものを感じました。仲間満慶山英極(ナカマミツケイマエイキョク)。嘉平首里大屋子(カビラシナゴーヤー)英極といい、満慶山は童名、首里大屋子は役職名です。母は嘉平(カビラ)村のツカサ、仲間かもい。1467年石垣島に生まれ、島北西部の川平を治めました。

1500年ごろ

当時の八重山には、西表島に「慶来慶田城用緒(ケライケダグスクヨウチョウ)」与那国島に「サンアイイソバ」、波照間島に「明宇底獅子嘉殿(ミウスクシシカドゥン)」石垣島には南部・石垣市街地に「長田大主(ナアタウフシュ)」、石垣島北端に「平久保加那按司(ヒラクボカナアジ)」、大浜に「オヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)」の豪族たちがひしめいていました。これらのうち、平家の末裔といわれる人々は仲間満慶山のほか、長田大主、慶来慶田城用緒、宮古島の仲宗根豊見親など、一大勢力をなしていました。とくに長田大主は仲宗根豊見親の子とさえ言われています。

そんななか、1500年、オヤケアカハチが長田大主を攻めて石垣島から追い落とし、西表島に逃亡させるという事件が発生し、事態が展開を始めます。事件の通報を受けた琉球王府軍が宮古島の仲宗根豊見親を石垣島に送ることを決定。オヤケアカハチは周囲の豪族たちに協力を求めます。

仲間満慶山は登野城の仲須目原(ナカシィメーバル)に呼び出され、アカハチに挙兵を求められますが、琉球王府の強大さや島民の多くを戦いに巻き込んでしまうことなど、周辺の状況を見てアカハチの挙兵に協力することを断ります。アカハチとの会談の後、馬に乗って一人帰途についた仲間満慶山は、名蔵湾のケーラ崎に差し掛かったところで、なんとアカハチの仕掛けた落とし穴にかかり、だまし討ちに遭ってしまいました。現場はケーラ崎といい、「仲間満慶山終焉の地」の碑が立てられています。「石垣島焼窯元」の正面入り口の真向かい、海岸です。ケーラとはぶった切るという意味です。<地図

このころ同様にアカハチに挙兵を求められた明宇底獅子嘉殿が波照間島の海岸で切り捨てられ、海中に投げ込まれるという事件も起こりました。これらにより、アカハチの乱は決定的となります。

アカハチの乱 そして戦後

その後、アカハチは琉球王府軍と長田大主らによって討ち取られ、琉球王府側についた豪族はそれぞれ琉球の重職を与えられました。仲間満慶山の男子八人も、ともに首里大屋子役(シナゴーヤー)という役職を仰せ付かりました。

仲間満慶山の子孫では、約100年後、当時宮良の最高位、頭職であった石垣親雲上永将は、キリスト教布教のため石垣に到着したファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父を歓待したことでキリシタンであると疑われ、琉球王府により流罪となりました。薩摩藩よりさらに火刑を要求され、火あぶりとされました。この事件は「八重山キリシタン事件」として知られています。

殉教者石垣永将洗礼の地

 

仲間満慶山英極の墓

大きな海水浴場のある底地ビーチの南西端、断崖の洞窟に大規模な墓があります。薄暗いジャングルの中、長大な階段の先の、高い檀上に墓所があります。まるで探検映画のワンシーンのようなところです。今も一族の方がお守りをしておられます。<地図

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