西表島をドライブ⑩ 「豊原」の先へ(忘勿石)

西表島をドライブ⑩ 「豊原」の先へ(忘勿石)

こんにちは。西表島在住の you- です。

今年3~5月に、シリーズ化していた『西表島をドライブ 県道215号』の続編で、『終点の先に続く道』をご紹介しています!
今回は、歴史的な場所でもある『忘勿石』です。

『忘勿石(わすれないし)』と『忘勿石之碑(わすれないしのひ)』

前回の『南風見田の浜』に向かう途中の道看板を、看板の通りに曲がります。

舗装された道路もできていて、超~立派な駐車場まであります!

2016年に この立派な駐車場はできましたが、大原港付近より先、公衆トイレは全くありません!!ので、ご注意ください!

駐車場の脇に、『忘勿石』への入口・遊歩道も新たに設置されました。

私は、この『忘勿石』の文字を見るだけで、胸が締め付けられる思いになります。

くぐる前に 黙祷をして、「入らせていただきます。」

先に目に入るのは、『忘勿石之碑』だと思います。

『忘勿石之碑』は、1992年8月、人命の尊さや戦争の悲惨さを伝えようと、南の海上 波照間島がよく見えるところへ建立されました。毎年慰霊祭も行われています。

左の銅像は、当時の波照間国民学校長 識名信升(しきなしんしょう)氏で、
右が識名氏が刻んだとされる「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字の“レプリカ”です。

本物の『忘勿石』は、遊歩道の階段を降り切った左手側、石碑とは反対側にあります。

ともすると、気づかれずに 本物を見ずして行ってしまうのかもしれない・・・と思うほどに、
とても静かに そこにあります。

『忘勿石』の歴史

ここでそれを語るのは、とても難しいので、簡単ですみません。

第2次世界大戦末期、波照間島の住民たちは、軍による命令で この浜へ強制的に疎開をさせられました。当時、この南風見田の浜は「マラリア発生地域」として非常に恐れられていたにもかかわらず、です。

波照間島民を無理矢理疎開させた理由は、一説によると、島の牛豚などの食糧を日本軍が奪い取るためであったと伝えられています。

疎開先では、この石碑がある場所が青空教室となっていました。


海の向こうに、波照間島が臨めます。

ほどなく 子どもたちにもマラリアの伝染がはじまり、多くの人が命を落としました。

このような状況に耐えかねた、当時の波照間国民学校長 識名信升氏は、疎開解除の直訴を2回も行い、識名校長をはじめ 島民の命がけの抗議により、4か月後 ようやく帰島が叶いました。

識名校長は、波照間島に戻る際、娘を含む多くの人が亡くなった悲しみを、そして、この悲惨な体験を忘れるなという思いを込めて、「忘勿石 ハテルマ シキナ」と海浜の岩に刻みました。
この岩が、現在「忘勿石」と呼ばれるものです。

↓このビーチから、岩をくぐって遊歩道に戻る際に、「忘勿石」が右手にあります。

しかし、波照間島への帰島に際し、マラリアを持ち帰ってしまったために島民の99.8%が罹患し、伝染病と飢えで人口の約1/3が亡くなったとされています。
(1945年当時 強制疎開者は1275人。そのうち98.7%が罹患し、人口の36.2%が亡くなったとされています。<参考文献:もう一つの沖縄戦-マラリア地獄の波照間島->)

その後、その石は、1954年 波照間島出身の保久盛長正氏により偶然発見されましたが、
その後も多くが語られることはなく、1982年の沖縄国際大学・石原ゼミによる調査と、その成果をまとめた「もうひとつの沖縄戦―戦争マラリアの波照間島― (おきなわ文庫)」によって、ようやく 世間に知られることとなったと言います。

悲しき 現在の姿

1992年8月に建立された『忘勿石之碑』ですが、当初の姿がこちらです。

お気づきですか?
そうです。現在は、下半分の碑文が剥がれてしまっています。

台風の際には、海風の当たりもかなり強いでしょうしね、長年の劣化もあるでしょうしね。

割れてしまったかけらは、集められて 石碑の裏側に並べられていました。

裏側の碑文は、健在のようです。

もともとの全文は、どんなものだったのかな。
と思い、検索したところ、詳しく紹介されたものがありました。

リンク:http://www.zephyr.justhpbs.jp/wasurenaishi.html

まとめ

少し重い話もありつつ・・・でしたが、いかがでしたか?

美しい海の景色と過去の歴史が、両極にも感じますが、これが西表島の姿ですから。
そのようなことも知っていただいて、この場所を訪れていただけたら、と思います。

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