石垣島の歴史  平久保加那按司

石垣島の歴史  平久保加那按司

Fuyuです。西暦1500年前後の石垣島の実力者たちを調べていて、平久保加那按司という人物に行き当たりました。当時の立場上、石垣の歴史に影響を及ぼしたに違いないと思ったからです。

1500年ごろの石垣島を代表する土豪の一人「平久保加那按司」は、石垣島北端の平久保(ペーブク)半島、平の集落に住んでいました。

現在の平野集落に当たるところです。実はこの人物についてあまり記録は残されていません。この場所には、他の豪族の本拠地と同様に八重山式土器、明代の青磁、須恵器などが出土した「平野第2遺跡」と呼ばれる遺跡が残されています。記録によれば彼は、馬を400頭も飼っており、稲を4~500石も蓄え、勢力を誇っていました。ところが1483年、オヤケアカハチの乱より前に西表島の慶来慶田城用緒(けらいけだぐすく ようちょ)によって討ち取られてしまいました。

八重山の豪族

当時の八重山地方の豪族として

西表島   慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょう)

石垣島・平久保 平久保加那按司

石垣島・川平 仲間満慶山英極(なかまみつけーまえいきょく)

石垣島・大浜 オヤケアカハチ

石垣島・石垣 長田大主(なーだふーず)

波照間島 明宇底獅子嘉殿(みうすくししかどぅん)

与那国島 サンアイ・イソバ(女性)

以上7人の名前が伝えられています。彼らは時には互いに争うこともあったようです。

この中で琉球王府に反抗したのはオヤケアカハチ。そしてオヤケアカハチとの戦いに勝ち抜いて琉球王府とともに後の八重山を築き上げたのは、慶来慶田城用緒、長田大主、明宇底獅子嘉殿の3人です。

「按司」は土地の豪族のこと。アンジと読みます。八重山ではアズと呼ばれていたそうです。琉球王朝の時代には王子の次に位置するという高い位なのですが、同時代の石垣島の豪族の中で「按司」を称しているのは平久保加那按司だけです。

慶来慶田城由来記によると

平久保に加那あじという人がいたが、平久保村近辺の人を集め、おどして従わせ、下人のように召し使っていた。稲、粟を4~500石ほど蓄え、牛馬を3~400頭飼い、威勢をふるっていた。慶来慶田城は刳り舟に乗り、西表島から平久保へ渡り、加那あじに面会を申し入れたところ「追い返せ」とのことであったため、加那あじの下女などの助けを得て、加那あじや妻子など残らず討ち果たした。

平久保加那按司の記録はこれだけです。

平久保加那按司が討たれたのは?

当時、宮古島の「仲宗根豊見親」は琉球王朝の下で海外との交易を盛んに行っていましたが、同じ平家一族の慶来慶田城と交易をするうえで、八重山に勢力を張る平久保加那按司の力が邪魔になっていたために除去を試みたと考えられています。そして次に、同じく平家の仲間満慶山がアカハチの騙し討ちにされたため、そのアカハチを倒して、石垣島すべてを手に入れようとしたと考えられます。

<仲間満慶山終焉の地碑>

アカハチは強力な武力を持っていたため、宮古島の仲宗根豊見親が、琉球の力を借りてアカハチを討ち果たします。これがアカハチの乱の状況でした。

<オヤケアカハチ像>

石垣島の歴史

石垣島は、八重山地方で中心的な位置にあったにもかかわらず、1500年になるまでは島の歴史がはっきりと伝えられておらず、周辺の、例えば「西表島」や「波照間島」などに残る歴史から石垣島の記述を拾い上げて研究されています。つまり、石垣島では1500年以前は有史以前ということです。1500年はオヤケアカハチの乱があった年で、このころ以降については、数多くの文献に記録が残されるようになります。

平久保加那按司については、慶来慶田城に討たれたこと以外、詳しいことが伝えられていないため、慶来慶田城側からの一方的な歴史となっています。詳しい歴史が明らかになることを期待しています。

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