石垣島の史跡案内 フルスト原遺跡

石垣島の史跡案内 フルスト原遺跡

Fuyuです。フルスト原(フルストバル)遺跡に行ってきました。だーれもいない広ーい遺跡でした。ムラサキサギがバタバタと飛び立ち、コウライキジもドタバタと飛んでいきます。

地図をたよって「フルスト原遺跡」を訪ねていくと、石碑があって、県教育委員会の説明板がありました。

けれど、石碑の後ろにあるのは高い崖だけで、想像を掻き立ててくれるようなものはありません。発掘・整備がなされる以前に石碑が建てられたんでしょうね。現在整備中の遺跡を見学したいのであれば、ここから崖の上に上る方法はありません。シードー線(道の名前です)の大浜あたりで、道路際の森に、小さな看板があります。

それを目印に未舗装の道を入っていきます。まるで、ジャングルの道です。木々に覆われ、光の入らない道を進みます。500mぐらいの道をがたがた揺られると、いきなり光いっぱいの開けた広場に出ます。

地図

ほかの遺跡同様、きれいに下草を刈られています。遺跡の一部を公開する目的で整備されているのでしょう。

入ってきた道は、この広場で行き止まりになります。この先も、大浜海岸方向に道らしきものが続いていますが、車は通れそうにありません。

何カ所か、写真入りの説明版が建てられています。

フルスト原遺跡とは

<崎原公園のオヤケアカハチ像です>

もともと英雄「オヤケアカハチ」が居住し、活躍の中心としたところと言われていました。しかし、最近その説は壊れてきたようで、発掘調査の結果からはオヤケアカハチに関連するものは見つからなかったそうです。オヤケアカハチが活躍したのは西暦1500年ごろですが、この遺跡はその200年ほど前から存在して、1500年より前には最盛期を迎えていたようです。そして、オヤケアカハチ事件(1500年)のころには、集落としてはすでに終わりを迎えていたようだとのことです。琉球王府の中央集権体制が整う頃に、この集落は終焉を迎えていたようです。

出土品は、生活道具として、八重山産の土器、中国・東南アジア製の陶磁器、徳之島産のカムイャキなどのほか、中森式土器といわれるもの。陶磁器は、青磁・白磁の椀や皿、褐色釉の壺なども多く見つかっているそうです。年代は13世紀から16世紀初頭で、15世紀が中心だそうです。16世紀初頭には、この地域は放棄されている様子だとか。

装飾品は、勾玉、管玉や銅鏡を切断して加工したものも出ているそうです。そして、武具は出てきていません。

16世紀の後は、地域内に多くの墓が設けられ方形石積墓が点在しているそうです。方形石積墓は天井に琉球石灰岩の一枚岩をかぶせ、中央に墓室を設けたものです。ここには煙管やかんざしが見つかっており、18世紀以降のものとみられています。

今の様子

ここは大浜の海岸近くで、標高25mの崖上に位置します。伝承では、1500年に尚真王の軍勢に滅ぼされた、オヤケアカハチの居館跡とされていました。

先に書いたように、遺跡の中央部はきれいに雑草が払われ、石積みの塀、あるいは石垣が復元されており、本土の江戸時代の城跡のような趣です。しかしこれらは、屋敷を囲む塀ではないかと考えられており、軍事施設の線は薄れてきているようです。建築物は掘っ立て柱に草の葉を葺いた建物が想像されています。

オヤケアカハチが籠った城館が期待されていたものの、期待とはちょっと違ったものであったようです。ただし、この近辺では軍事施設が発見されておらず、オヤケアカハチの居城とする意見も捨てがたいとのことです。

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